中国の歴史書における日本のお酒
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前回、魏志倭人伝に書かれている日本人とお酒の
関係をお話しました。
では、それ以外の中国の文献では日本人とお酒に関するお話は出てこないのでしょうか?
『論衡』における倭人
『論衡』における倭人をみてみると
- 「周時天下太平 倭人來獻鬯草」(異虚篇第一八)
- 現代語訳:周の時、天下太平にして、倭人来たりて鬯草を献ず
- 「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」(恢国篇第五八)
- 現代語訳:成王の時、越裳は雉を献じ、倭人は鬯草を貢ず
- 「周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶」(儒増篇第二六)
- 現代語訳:周の時、天下は太平にして、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢す。白雉を食し鬯草を服用するも、凶を除くあたわず。
とあります。
この、鬯草というのがウコンだといわれていて、お酒に混ぜて香酒としていたといわれています。
中国の歴史書における日本のお酒というか日本人(倭人)の記述があるのが、これが最古だと思われるので書物で日本とお酒を
探るのはこれが限界でしょうか
しかし、この周の時代というのが、紀元前1000年程のことである事から当時の日本は縄文時代であり この時代に中国と交流があったというのは否定的な意見が多く、ここで出てくる倭人とは日本人を指すのではなく、 中国南部に定住していた越族の中の倭人を指すのではといわれています。
『論衡』が書かれた時代背景
では、本当に当時の日本人は中国と交流がなかったのか別の視点で見てみたいと思います。
この『論衡』の著者である王充は、どの様にとらえていたのでしょうか?
この『論衡』の書かれた時代に何が起こっていたのか見てみると
- 「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」
- 建武中元二年(57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす
とあり、有名な「漢委奴國王」という金印を授けられた。
という出来事があったようです。
漢の印綬制度では印の材質では上から順に玉・金・銀・銅、とありかなりな好待遇での金印を授与されたようです。
そういった時代背景において書かれた事から王充がこの事を知らなかったとは思えなく
少なくとも王充にとって『論衡』内ででてくる「倭人」は日本人と認識していたのではと思います。
しかし、これだけだと単なる個人の感想でしかなくこの「倭人」が日本人だといわれても困りますよね?
では当時、日本が中国と交流を持っていた証拠の様なものはないのか?
調べて見たところ、ありました。
水田稲作の開始
紀元前1000年前という言葉を、どこかで聞いたことがあったで再度調べて見たところ、紀元前1000年前と 聞いた事があったのは、「日本の水田稲作が始まったのは、今から約3000年前の縄文時代後・晩期の可能性が高いと、 現在では考えらている」という話です。
中国からの稲作の伝来についてですが、最近では稲のDNAの調査などから日本の稲は朝鮮半島の系列では無い 事がわかり、朝鮮半島経由ではなく中国から直接伝わったという可能性が高いそうです。
紀元前1000年前というのに、どこかで聞いたことがあったのは、この話です。
稲作が伝わったのが、この時代であるのならば、もしかしたら先ほどの『論衡』での交流の際に、
稲作が伝わった可能性もありますし、『論衡』に出てくる「倭人」が日本人じゃなかったとしても
中国から稲作が直接その時代に伝わった以上、何かしらの接点はあったのでしょうね
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